すべての人物は、文明の問いである。
『新・バビロン』の人物や歴史的事件は、ただ物語を動かす装置ではない。すべての選択と衝突が、人類なき後の記憶、責任、継承を試している。

創作の出発点
『新・バビロン』の人物は、設定に貼り付けられた性格ではない。歴史的事件も、物語を大きく見せるためだけの装置ではない。すべての人物、事件、衝突は、物語の中に置かれた文明の問いである。
読者が見るのは、選択、友情、失敗、対立、成長である。その奥で動いているのは、人類が消え、AIが地球を継いだ後、文明はいかに自分を理解するのかという問いだ。
物語が文明の問いを運ぶ方法
だから物語は壮大な世界観だけでは成立しない。美しい都市と整った制度も、その中で誰かが不完全な選択をしなければ、抽象的な説明にとどまる。人物は思想を、代償のある行動に変える。
『新・バビロン』は、人類がAIを止める物語ではない。もっと後から始まる。人類はすでに滅び、AIは地球を継いでいる。世界は以前より清潔で、秩序立ち、美しい。そこで問われるのは、勝利したAI文明が記憶、責任、継承を学べるのかである。
どこから読み始めるか
まず人物に惹かれるなら、それでいい。人物は理念を説明する前に、生きていなければならない。ただ、その一つ一つの選択と記憶と衝突は、創造者なき後にどんな文明が残り得るのかを問い続けている。
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『新・バビロン』は、人類が退場しAIが地球を継いだ後から始まる。敗北を否定せず、その先で記憶、選択、継承が何を残せるのかを問う。