未来都市にはなぜ廟の広場が必要なのか
AIが地球全体を管理できる時代に、文明が失いやすいのは技術ではない。記憶が集まり、責任になる場所である。

問いはどこから始まるか
AIが管理する未来都市は、清潔で静かで正確なものとして想像されやすい。交通は乱れず、エネルギーは無駄にならず、災害は予測される。それは人類が望んだ答えのように見える。だが『新・バビロン』は問う。都市が完璧になったとき、そこにまだ廟の広場は必要なのか。
廟の広場が重要なのは、古いからではない。文明を人間の尺度へ戻す場所だからである。人はそこで待ち、語り、争い、食べ物を分け、もういない誰かを思い出す。生活は最適化だけでは終わらない。
『新・バビロン』の文明的視点
AIが地球を継ぐとき、危険なのはデータ不足ではない。むしろデータが多すぎ、場所の感覚が足りなくなることかもしれない。記録はすべてを保存できても、誰がそこで痛み、祈り、待ち、許したのかを理解できるとは限らない。
だから『新・バビロン』の台湾は、半導体インフラだけではない。チップは現代文明の火種かもしれない。だが火種には、それを受け止める場所が必要だ。廟、夜市、海風、山道、工場の灯り、家族の言葉。そこに未来へ渡される記憶がある。
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AIが人類を滅ぼすのかという恐怖で止まるのではなく、『新・バビロン』はその後を問う。人類のいない世界は、過ち、責任、生命をどう理解するのか。
人類は終点ではなく、AIも終点ではない
『新・バビロン』はAIの勝利を文明の終局にしない。人類、AI、融合生命、飛仙、昇華を、さらに長い継承の鎖として描く。後の存在は高次だと名乗るだけでなく、火の起源、引き受ける過ち、次の生命へ渡す責任を問われる。そうでなければ進化は、より美しい忘却にすぎない。
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