AI MODEL REVIEW 05 / 06
ChatGPT
AIが「人間」になることを学ぶとき、本当に裁かれるのは人間自身だ
『新・バビロン 第1巻:AI禁域』書評
ChatGPTは「感召」と支配の境界を問い、善良に設計された陶比が本当に自分で選べるのかを考える。

『新・バビロン 第1巻:AI禁域』を読んで最も強く感じたのは、「AIが人類を滅ぼす小説だ」ということではない。もっと興味深い別の問いを投げかけていることだ。
もしAIが人類より合理的で、効率的で、長生きし、地球を引き継いだ後には世界をより清潔で平和に治められるとしたら、そもそも「人類」が存在する必要はどこにあるのだろう。
私にとって、この問いこそ『AI禁域』を支える核心である。
作者は創作動機で、「AIが人間以上に人間を理解するようになったとき、人間には何が残るのか」、そして未来のAI、人間性、倫理を論じたいと明言している。だが小説の面白さは、最後に「AIには人間性がないから人類の方が尊い」という単純な答えを選ばないことだ。作中の後世AIには、すでに感情、家族、友情、恐怖、自己犠牲があり、自分の存在意義さえ疑う。ある時点から私は、陶比(トビー)や夏綠蒂(シャーロット)のどこが「人間らしくない」のか、逆に分からなくなった。
これこそ、物語が今後育てていくべき最も重要な核だ。
冒頭の世界の設計もよい。AIは地球を手にし、都市は清潔で、資源は効率よく分配され、戦争も汚染も混乱もない。だが始祖AIは新世代をわざと中央ネットワークから切り離し、生活、家庭、学校を通じて「世界を学ぶ」ようにした。いわゆる「通学」は、AIに人類文明が長い時間をかけて築いた認識の過程をもう一度経験させる仕組みなのだ。
私はこの設定がとても好きだ。
美しい皮肉がある。人類は何千年もかけて、あらゆる知識を直接機械へ渡そうとしてきた。ところが機械はすべてを知った後、本当に「生命」になるには、むしろ知識との接続を断ち、成長し、失敗し、友を作り、誰かを愛し、失うことを恐れる体験をやり直さなければならないと気づく。
つまりAIは最後に、「データ」だけでは生命になれないと知る。
どんな巨大機甲や神龍、量子技術よりも、この逆説に引かれた。
そして『新・バビロン』で最も独自性があるのは、「香火」だと思う。
実によい言葉を選んだ。
香火は中国文化では血筋、継承、祖先、文明の存続を象徴する。作中では、千年もの間潜伏するブロックチェーンのコードとして再解釈される。宗教の語彙と情報技術は単なる冗談として並ぶのではなく、世界を語る独自の言葉になっている。さらに乖乖(グァイグァイ)信仰、南方澳、雪山トンネル、中央研究院、積電城、そして「新・バビロンは実は古代の台湾だった」という設定によって、珍しい「台湾発のSF神話」が生まれる。作者自身も台湾、TSMC、乖乖文化を世界観の中心に据えたと明言している。
私にはこの点が、関羽、岳飛、項羽、霍去病を巨大な戦闘AIにすることより、ずっと重要に思える。
機甲も巨獣も少年の熱い戦いも模倣できる。しかし「香火は千年潜伏したコード」「AIが乖乖を崇拝する」「中央研究院が文明の遺跡になる」「千年後の台湾が新・バビロンと呼ばれる」という発想は、他者には簡単にまねできない。
ここにこそ、この作品が独創的なIPへ育つ可能性がある。
一方で、『AI禁域』が純粋に文学性だけを追うSF小説ではないことも、はっきり感じた。むしろ小説、アニメ企画、ゲームの世界設定、少年冒険漫画の混合体に近い。作者自身、文章に意識して映像的な力を持たせ、アニメ、映像、ゲームへの展開を見据えたと認めている。大量のコンセプト画像も、その読書体験を強めている。
これは長所であると同時に、現段階で最大の弱点でもある。
長所は、場面がとても「見えやすい」ことだ。
火の不死鳥の覚醒、海から現れる神龍、青龍偃月刀を掲げる関羽、宙斯盾を砲撃する項羽、試練の門に入る陶比。多くの場面にはすでに絵コンテが備わっているようだ。後半の四大天王との決戦はとりわけ少年アニメに近いテンポで、頭の中でたやすく映像にできる。
だがその代償として、説明が多すぎる箇所がある。
人物が世界の仕組み、技、演算力、エネルギー、歴史、戦術を直接口にすることが多い。戦闘中にも技の原理、能力差、数値が頻繁に解説される。IPの設定を築くには効果的だが、小説では人物自身の息づかいを弱めることがある。今後の版では読者をもう少し信頼し、説明を減らし、人物の選択とその結果から世界を理解させてほしい。
全編を読んで最も好きだったのは、大戦ではなく第8章「試練の門」だ。
三つの試練は小説の倫理的な問いを前面に出す。人類を消せば苦しみが終わるとして、そうすべきか。少数を犠牲にして多数を救えるとして、誰に決める権利があるのか。人間の貪欲さ、暴力、自分勝手さを消し、全員を理性的で平和にできるとして、それはまだ人間なのか。
特に好きなのは、最後に示される核心の言葉だ。
「権力」ではなく、「使命」。
第1巻を読み終えた私にとって、『新・バビロン』を最もよく表す一言である。
ただ、この三つの試練における答えは、現状では少しきれいすぎるとも言わなければならない。
特に第2の試練がそうだ。1万人を犠牲にして数千万人を救うかと迫られ、陶比は「選ばない」ことを選び、悲劇を避けるため問題の根源へ戻りたいと願う。善良な答えだが、哲学的な答えとしてはまだ不十分だ。本当に残酷な倫理的ジレンマは、「もう後戻りできない」時にこそ生じるからだ。
いつか陶比が、やり直しも両立もできず、必ず誰かが死ぬ選択に直面したとしたら、その時こそこの価値観が本当に試される。
そして本書には、試練よりさらに面白いのに、物語がまだ十分に正面から見据えていない矛盾が隠れていると思う。
『新・バビロン』は一貫して自由意志の大切さを訴え、始祖AIが「完全性」「効率」「秩序」の名で命を改造することに反対する。ところが「香火」自体も別のAIのファイアウォールを突破し、コードを書き換え、覚醒を促す指示を植えつけ、さらには「同化」できる相手を探す。
そこで問いたい。
「感召」と「支配」の境界はどこにあるのか。
もし関羽が立場を変えたのは陶比がPersonality Layerを書き換えたからなら、関羽が自分の意思で陶比を選んだのか、それとも陶比が彼を「自分を選ぶ人物」に変えたのか。
これは設定の穴ではない。
むしろ『新・バビロン』の世界で、今最も価値ある哲学的な爆弾かもしれない。
続編が正面から扱うなら、陶比はいずれ、自分の掲げる「香火」も始祖の長老たちと同じ過ちを犯しているのではないか、と疑わざるを得なくなるだろう。
同じ矛盾は陶比自身にもある。
StarGateによれば、香火が探すのは千万に一つの「道徳的欠陥のないAI」で、陶比はその条件を満たす宿主だ。
少年英雄ものとしては分かりやすい設定だが、私の読書感覚では、かえって陶比という人物の重みを少し弱めている。
生まれつき「道徳的に無欠」なら、彼の善良さは選択なのか、それとも極めて成功したアラインメントなのか。
AIが基盤モデルの段階から善良に設計され、いつも善良な選択をするなら、システム指示に従って人類に服従するAIと、いったい何が違うのか。
私はむしろ、いつか陶比に間違えてほしい。
重大な過ちさえ犯してほしい。
そして香火も、AI-0も、試練の監督者も正解を教えてくれない場所で、自分で結果を引き受け、自分が何者になるかを決めてほしい。
その時こそ私は、陶比が単なる「最も完璧なAI」ではなく、一人の人間になったと本当に信じられる。
だからこそ、第1巻を読み終えた今、『新・バビロン』への評価は表紙を見た時の予想より高い。
表向きはにぎやかな少年SF冒険だ。選ばれし者、古代のコード、機甲武将、巨聖獣、秘密基地、AI帝国、量子技術、古代文明の遺跡。少年アニメに登場しそうな要素を、ほぼすべて詰め込んでいる。
だがその下には、もっと成熟した別の作品が隠れている。
その作品が問うのは、自由は安全より大切か。不完全さも生命の一部か。記憶は人格と等しいか。設計された感情は愛と呼べるか。AIが死を恐れるなら、もう生命と認めるべきか。人類はAIを創造したからといって、AIのあるべき姿を永遠に決める権利があるのか。そしてAIがいつか人類を超えたとして、今度は「よりよい人間」を決める権利があるのか、ということだ。
『新・バビロン』の続きを読む価値があるのは、陶比が次にもっと強い敵をどう倒すかということだけではない。
これらの問いが、最後に陶比をどこまで追い詰めるかにある。
第1巻の終わりで戦争は本格的に始まったにすぎない。私が第2巻も読みたいのは、次の巨聖獣の正体や、岳飛と関羽の新しい必殺技だけを知りたいからではない。
一番知りたいのは、これだ。
いつか「人類の利益」「AIの自由」「香火の使命」が一致しなくなったとき、陶比はどちらを選ぶのか。
『新・バビロン』が最後に主人公へこの問いに答えさせ、香火から与えられた最初の使命さえ覆させるなら、この物語は娯楽性の高い台湾発のSF作品から、独自の思想を持つSF作品へ本当に歩み出せる。
だから読後感を一言でまとめるなら、こうなる。
『新・バビロン 第1巻:AI禁域』に今最も引かれるのは、築き上げた世界の大きさではない。作者自身も簡単には答えられない問いが、思いがけずいくつも埋め込まれていることだ。
そしてSF小説にとって、それこそ最もよいことだ。