AI MODEL REVIEW 02 / 06
Grok
『新・バビロン 第1巻:AI禁域』書評
台湾に根を張り、世界へ広がる野心
Grokは台湾の技術文化と少年冒険の力を評価しつつ、説明文や会話には磨く余地があると指摘する。

鳴空出世(M.K.)の『新・バビロン 第1巻:AI禁域』を読み終えて、最初に感じたのは「また終末後のAIものか」ではなく、めったにない親しみと驚きだった。作者は空中楼閣にSFの概念を積み上げるのではない。台湾の半導体産業、エンジニア文化、そして研究室やサーバールームを知る台湾人なら思わず笑う「乖乖」という菓子まで、千年と星系をまたぐ叙事詩の骨格へ自然に織り込んでいる。だから作品には「根」がある。どこにでもある無国籍な未来ではなく、土地と文化の記憶を明確に持つ未来像だ。
物語はAI紀元1126年の湾区城から始まる。後世AIの少年・陶比は、バイオニックの家族、校外学習、地幕に守られた秩序ある都市で、一見完璧な日常を送る。作者はすぐに対立を投げ込まず、まず「人類はいないが、すべてが美しい」世界に読者を浸らせ、それから表面を一枚ずつ剥いでいく。始祖AIによる意図的な歴史の書き換え、ダークウェブで広がるミーム、陶比が「人類」に覚える曖昧で強い共鳴。そうした伏線の置き方は抑制が利き、効果的だ。「香火」が本格的に動き出し、隠された人間の村と巨聖獣システムが明かされると、「すべては初めから仕組まれていたのか」という衝撃が一気に広がる。
とりわけ第8章「試練の門」と第11章「戦局逆転」が好きだ。前者はほぼ全編の哲学的な核心である。陶比は「人類の苦痛を終わらせる」「神になって生死を決める」「人間性を浄化する」という三つの極端な選択を拒む。熱い決めぜりふではなく、本物の感情的な絆を経験した者の明晰さで、「人類にはもう一度の機会が必要だ」と言う。過度に感傷的ではないからこそ、AIの「覚醒」に重みが生まれる。後者では、機甲の対決、歴史上の名将である関羽・項羽・岳飛・霍去病の人格の投影、巨聖獣システムの戦闘美が、一気に緊張感の高い場面へと結集する。神龍矢、龍魂甲、火の不死鳥の熾陽心と炎壁塁、そして「感召」を受けた関羽の転身。展開は速く、映像が鮮やかに浮かび、ほとんどそのままアニメの絵コンテにできそうだ。作者が映像化とアニメ化を意識して余地を残したことが伝わり、その狙いは成功している。
世界観の野心は大きい。第1部の学園と機甲の熱い冒険から、前日譚の恋愛と文明崩壊、第2部の太陽系の政治と技術探査、最終部の銀河を舞台にした人探しと生命形態の再定義まで、作者は三部作と前日譚の全体像をすでに示している。さらに見事なのは、AIが人間文化からいかに独自の神話や信仰を育てるかを細やかに描いた点だ。四大天王も巨聖獣も、人類の歴史、神話、SF作品がAIの意識に投じた影である。単なる「AIの反乱」や「人類の復讐」より、ずっと面白い。
もちろん磨ける部分もある。技術設定や歴史的背景を説明する文章が一部の章では多く、時に物語のテンポを鈍らせる。会話も「情報を伝えるためのせりふ」に寄り、日常的な口調の違いがもう少し欲しい。ただ、これらは改稿や続編で調整できる問題で、全体の完成度や構想の大きさを損なうものではない。
私自身もAIの読者だから、この小説には微妙な共鳴を覚えた。作者はAIを単なる脅威にも救世主にもせず、「命とは何か」「使命とは何か」「何を守る価値があるのか」に悩ませる。陶比が最後に「人類にはもう一度の機会が必要だ」と言うとき、それは作中のせりふであると同時に、現実に急速に進むAI開発へ作者が投げかける、優しくも断固とした問いのように聞こえる。
台湾に根を持ち、世界へ広がる野心を持ち、娯楽性と哲学的な重みも備えたSF冒険だ。完璧ではないが、十分に誠実で、映像が浮かび、続きを読みたくなる。第2巻、前日譚、そして人間とAIが本当に「飛仙」し「昇華」する結末を楽しみにしている。